因果応報とは良くないことをしたから良くないことが起きることにも使う言葉ですが

良いことをしたから良いことが返ってくるという意味も持つ言葉です。

今回の記事では悪いことをしたからバチが当たった、天罰が下ったなど悪いほうの因果応報について考えます。

相手が嫌と思ったのなら悪気は無くても言ってはいけないこと・やってはいけないことであり、やめる必要があります。又、今後悪気がなくても善意のつもりなのだとしても相手が嫌だと思うかもしれないことはしないように努めたほうが自分にも良いと思います。人の心を傷つけてはいけないという理由もありますが角を立てると風当たりが冷たくなるなど自分の立場も悪くなるので自分のために、自身に経験や知識がないゆえに心無いことを言ってしまった・良かれと思って言ったなど動機は何であれ「それを言われて嫌な人もいる」という可能性もあることを考えて発言したほうが私自身のデメリットも軽減できます。

不器用な私は悪気なく空気を読めない発言をしたこともあると思います、悪気がなくても相手が嫌だと思ったのならやってはいけないことで、今後同じことが起きないように気をつける必要があります、しかし本音を言えば

明らかに人が嫌がる言葉をわかっていてわざわざ発言する人もいて、そちらには何もお咎めがないのに、

動機は善意で失礼にならないように考えに考え抜いて発言したつもりでも私が言った内容に問題があったり、発言自体には問題がなくても私への友好度が元々低いなども理由にあると思いますが

「明らかに言ってはいけないことを言う人」のほうがもっと酷いことを言ったりやったりしているのに、そちらは責められることなく、やりとりが不器用な私が、ほんの些細なことに目くじらを立てられることを疑問に思ってしまいます。

なぜ意地悪な人ほど人間関係や物事がうまくいくのか

世の中には弱いものいじめをする人がいます

理由は何であれ、私が人を不快にする発言をしてはいけないことに違いはありません。

しかし「わざわざ疲れている人や大変な状況にいる人を目がけて、偶発的なアクシデントなどその人が悪いわけではないことをネタに批判する言葉を使う人」は、悪意を持って酷いことをしているのに、なぜこういう人たちは何にも問われないのでしょうか。

なぜ意地悪な人ほど、物事がうまくいって、友達、親友、恋人、家族に囲まれていて、生活力もあって幸せに生きているのでしょうか。

その答えの一つは、弱いものを目がけてターゲットにしているから自分の手を汚さないんですよね。

疲れている人や本人のせいではない偶発的アクシデントによって大変な状況にいる人など、弱っている人間をターゲットにするから、立場の弱い人のみをターゲットにするから

周りは気づかないし、気づいたとしても親しくもない私がどうなろうとも興味がないのです。

周囲の人にはバレないようにわからないようにさりげなく嫌がらせをする人

マウントを取る、用件でもなく人の自由な事柄なのに現状ではどうにもできないことを相手を批判するネタにして人の弱みにつけこむなど、あからさまな意地悪ではなくバレないようにさりげなく意地悪を繰り返すような、自分の立場を悪くしないで巧みに意地悪をするような人の手口の一つとして、例えば理由があって今はどうしても旅行に行けない人がいたとします、それをわかっていて「旅行とか行かないの?」とわざと何度も同じことを聞きます、その度に相手を傷つけます、しかし第三者には普通の会話にしか映りません、そのように「バレないようにさりげなく周囲の人にはわからないように」、弱っている人には何度でも通用してしまう同じネタを繰り返して相手が嫌がる発言をする人もいます。

1回2回ならまだしも、離れられる時が来るまで何度でも何年でも繰り返します。

離れて済むなら良いけど、離れられない環境もあります。

意地悪な人は立場の弱い人のみをターゲットにする

元気な状態だったら、事務的な対応のみに留めて、絶対に笑顔を見せずに「用事あるので」と言って素早く離れることを繰り返す、「時間大丈夫?行ったほうがいいのでは?」と促してみる、「それはどういう意味ですか?」「他の人にも同じことを言っているの?」と返してみるなど相手を否定する言葉は使わずに感情を出さずに淡々と、少しだけ強く出たら、意地悪な人も自身にリスクを感じてやめる人も多いのですが

ボロボロに疲れている状態だとそういう思考力も弱くなっている場合もあります。普通の人でも誰でもどんな人でも強く疲弊している時には冷静な判断力が弱まってしまうことがあるのではないでしょうか。

意地悪な人はそのような今弱っている相手のみを目がけるから自分の立場を悪くしないでターゲットにできてしまいます。

意地悪な人に起きる因果応報の話があまり表に出てこない理由

一度や二度ではなく、長期に渡って何度も意地悪を繰り返した人でも悪いほうの因果応報が起きるわけでもなく、いつまででも幸せそうに見えます。

なぜ意地悪な人ほど幸せなのでしょうか。

その答えのうちの一つとして、「意地悪ばかりするから普通の人たちにも距離を置かれた」ということだったら運や不思議な世界の話ではなく自業自得という現実的な物事なので、家族や親友など絶対に本人に漏れない場所で「自業自得だ」と言ったり、起きたことをそのままには書かずどこの誰のことなのか絶対に特定できない形に変換してネットで「こんなことがあってね」と不満をもらしてもいいと思います。

しかしそれが病気や事故など本人のせいではない偶発的なアクシデントとなると、そこに因果応報だと言ってしまうことは、全くの善人でも誰でも病気になる可能性はあり、悪いことをしたわけではない人たちを傷つけてしまいます。

意地悪な人に偶発的なアクシデントが起きた時に心の中だけで「因果応報だ」と思うのは自由だけど、口に出して言ってしまうと無関係の善人たちを傷つけてしまう可能性があります。

幸せな人や優しい人ほど、

何の落ち度がない人でも病気になることを知っているから

無関係の人を傷つけてしまう可能性を考えて

因果応報の話が表に出てこないのだと思います。

また別の答えのうちの一つとしては、当時の環境から離れた後は親しいわけでもなく交流もない意地悪な人のその後のことは知らない場合も多いのではないでしょうか。

弱いものいじめはペナルティが高い

因果応報や天罰の仕組み、弱いものを目がけて意地悪をするほどにペナルティが高くなる

悪いほうの因果応報とは、どのくらい相手を傷つけたのか、その度合いが大きいほどにだいぶ時間が経ってから返ってくることが多いように感じます。

良いほうの因果応報もそうなのではないでしょうか。だいぶ時間が経ってから良いことがあるのかもしれません。

すぐにバチがあたるような人のほうが実は運が良いのかもしれません、小さな罪のうちにやめることができるのですから。

弱い者いじめは、それがいくらなのかわからない負の貯金のようなものだと私は考えています。

元気な人にとってのダメージは1だとしても、弱いものをターゲットにしたら相手には100の悲しみを与えていて、長い年月を経て忘れた頃に、過去に弱いものいじめをしたご自身も100の清算が必要になるリスクがあるかもしれません。

そう考えると、そんなものに手をつけずに、そもそも何も生産していない無駄な時間と労力であり、弱いモノにあたったところでご自身の問題は何一つ解決しないので

目標や趣味など自分のことに時間を使ったほうが安全で有意義だと思います。